VOL.2
床の間の話
2022 / 2 / 25
現代住宅に於いて象徴的に消えてしまった空間は床の間ではないでしょうか?
昔の家には必ず和室があり床の間がありました。
戦後のマイホームブームでも一部屋だけでも和室と床の間はありました。
しかし団地やマンションが住宅の主流となるといつのころからか畳の和室が消え床の間が住宅から無くなってしまいました。
茶の間からフローリングのリビングダイニングとなり、寝室は布団からベットとなり畳は肩身の狭い空間となっていきました。
茶室に床の間がないことはあり得ない(板床として壁だけでも床の間の役割は担えます)訳ですが、住宅からは床の間は不要の長物となってしまいました。
では、床の間がいつ生まれどのように日本人の生活に関わってきたか?見てみましょう。
床の間の歴史
床の間の起源は室町時代にさかのぼります。
仏の飾りとして押板と棚に仏像を置いていた空間からスタートして、仏画や仏具を置く床飾りから床の間は生まれてきております。
その後、違い棚や付け書院などができ茶室建築から書院造りや数寄屋造りと発展していきます。
書院造りが確立する課程で、身分に上下を表すために「上段の間」と「下段の間」が生まれます。君主は「上段の間」に着座し、家臣は下段の間で座ります。
この「上段の間」を家臣も自宅に造りたいと思ったのですが、住宅事情から最小限の大きさにして座敷の一角に床の間として変化していきました。
一方、僧侶などの住宅では仏画を飾り、その前に香炉・花瓶・燭台の三具足を揃え、その置き台が「押し板」となります。その脇には読み書きのできる机用の出窓を設けて光を取り入れます。
武家の「上段の間」と僧侶の「押し板」の文化が融合して書院造りとなっていきます。
さらに、書や筆記用具の硯箱などを収納するために棚が必要となり、床脇に違い棚など造られてきます。後に書院の机としての機能は形骸化して装飾の場となり、現在のように真の間の付け書院の床の間と違い棚付きの床脇が完成していきます。
また、茶の湯の発展と共に、数寄屋造りが好まれるようになり床の間も自由な発想で草庵風の粋な空間となっていきました。
時代が変わっても床の間はその家の最も大切な場であり来客のもてなす演出として、日本の住宅には無くてはならない空間となっていきます。
向きも南か東側を向くように造り、書院からの光も東か南から入るように配置します。
床の間の見所
見所としては、やはり床柱をメインに床框、落とし掛け、違い棚、書院棚など様々な材を組み合わせて床の間を構成していきます。
床柱は、杉の磨き丸太、絞り丸太、桧や黒檀、紫檀、栗ナグリや赤松など様々天然木があり、同様に床框、落とし掛け、違い棚、書院棚も天然木に漆を施したりもしてます。
(昔は全て無垢でしたが、現在では練り付けの人工材ありますのでご注意ください)
どの材でどう造るかはその家の主人の拘りから生まれてきます。
(約束事も材料も分からなくなってしまった現代人には難しいかもしれませんが建築の醍醐味でもありますのでぜひ拘ってみてください!)
また、草庵茶室では、利休が考案した「洞床」のように床柱も落とし掛けも床框も無い究極の床の間もあります。掛け軸や花が最も引き立つように全てを削ぎ落として「不足の美」の極みを表した床の間もあります。
伝統を理解して突き詰めてこそ約束事を破って、さらなる美を追究する「守破離」の世界を床の間で感じとっていただきたい。
床の間の役割
現代の住宅では、残念ながら床の間はもちろん和室も無い家が主流になってしまいました。
室町の時代から床の間は、権威の象徴であり、文化の場でありました。さらには、歳時としてのその季節や年中行事の象徴として様々の飾り付けもされてきました。
ここで、次世代への文化の継承や家族の絆なども生まれてきたように思います。床の間が無くなった現代に置いては、その空間に変わるものが消えてしまいました。(強いて言えば、玄関の下駄箱飾り棚かリビングのテレビ台ぐらいでしょうか?残念!)
いま、弊社では茶室を多く造ってきてますが、これは茶道を行う場以上に床の間を一般家庭でも造ってほしい思いからでもあります。
ぜひ、日本の住宅に「床の間」文化を取り戻して行きたいと思います。
さらに世界にも「TOKONOMA」カルチャーを広めて参ります!
椿邦司のサイドプロジェクト
SIDE PROJECT